2023.04.20 会津を統治した大名や藩主

12世紀以降、会津を治めた大名たちは、特に江戸時代(1603〜1867)の徳川幕府の下で文化や産業に大きく貢献し、この地域に大きな影響を与えました。会津の歴史を語る上で、欠かせない人物です。

蘆名家 城下町の形成
12世紀、会津(当時の黒川)を支配していたのは恵日寺でしたが、戦乱や政治的な同盟関係により、その主導権は何世紀にもわたって変化してきました。13世紀には蘆名氏が実権を握り、数百年にわたり支配を続けました。蘆名直盛(1323-1391)は、現在鶴ヶ城が建っている場所に、最初の城である黒川城を築きました。1589年、蘆名氏は伊達政宗に敗れ、黒川城を奪われました。しかし、その勝利も束の間、翌年、豊臣秀吉(1537-1598)が黒川を蒲生氏郷(1556-1595)という信頼を寄せる支持者に譲ります。
 
蒲生家 土地と産業の開発
蒲生氏郷の指導のもと、この地は大いに発展しました。氏郷は若松と改名し、城を改築して鶴ヶ城とした。また、故郷(現三重県)の商人や職人を会津に招き、酒造業を営み、良質な酒造りの伝統を確立しました。また、会津漆器や絵ろうそく、赤べこなどの工芸品も会津に定着させました。この3つの産業は、現在では会津若松市の文化として大切にされています。
 
また、氏郷は京都から茶人・千利休(1522-1591)の息子で茶人の千昌庵(1546-1614)を招き、茶文化の振興にも努めました。鶴ヶ城公園内の茶室麟閣では、この地域の茶文化について学ぶことができます。1590年、この地域は会津と改称されました。1595年、氏郷の死後、13歳の息子・秀行が会津藩の初代藩主となりました。
 
加藤家 急速な統治者の交代
秀行の後を継いだ嫡男は、跡継ぎがいないまま亡くなりました。そこで徳川家康は、松山伊予藩(現在の愛媛県)から加藤嘉明(1563-1631)を会津藩主に任命しました。嘉明は城のさらなる整備を行い、その後、息子に引き継ぎました。
 
保科家 強大な遺産を築く
徳川家光(1604-1651)は、加藤家に代わって保科正之(1611-1673)を擁し、会津武士の基盤を確立し、繁栄の時代を築きました。正之は家康の異母弟(家光の祖父)として、幕府と密接な関係にありました。商業と農業を発展させ、会津若松を米と酒の一大生産地へと押し上げました。また、幕府に忠誠を誓う会津藩家訓も作成しました。
 
松平家 2世紀にわたる繁栄と教育
保科家は、幕府と密接な関係を持ち尊敬されている姓である松平を使用する機会を与えられました。正之は、徳川家の権力を主張したくないことを示すためにこの名誉を断りました。しかし、1669年に父が会津藩の指導権を譲った後、息子の正経(1647-1681)が後に松平の姓と紋章を取りました。
 
現在、松平家として知られる正之の子孫は、その後200年間会津を支配し続けました。松平家5代藩主の容頌(1750年~1805年)は、武士を養成する会津日新館を創設し、これは日本有数の武士教育機関となりました。
 
松平容保 会津藩の最後
第9代松平藩主である容保 (1836–1893) は、戊辰戦争 (1868–1869) と会津の戦い (1868) で新政府の敵軍が鶴ヶ城を包囲し、会津武士に降伏を強いた劇的な出来事の間を通して会津藩を率いました。容保と養子の喜徳(1855-1891)は、しばらくの間、自宅軟禁されました。喜徳は一般的に松平10代目で会津藩最後の藩主と考えられています。
旧藩は県に改められ、会津は福島県の一部となりました。若松市は1889年に福島県の最初の市として誕生し、1951年に周囲の7つの村と合併して会津若松になりました。鶴ヶ城や院内山にある松平家御廟では会津藩主についてより深く学ぶことができます。