2023.04.07 史跡若松城跡 / 鶴ヶ城のお堀と石垣

鶴ヶ城は会津若松で愛される街のシンボルです。鶴に似ていることから城名がつきました。白い壁と赤瓦の屋根は、鶴の白い羽と赤い冠に似ています。現在、鶴ヶ城と鶴ヶ城城址公園は会津若松を代表する観光名所となっています。公園は、多くの桜の木を含む、植栽、芝生、花の広々としたオアシスです。

時代とともに変化する城
会津最古のこの城は、戦国武将・蘆名直盛(1323-1391)によって築かれ、当初は黒川城と呼ばれていました。その後、会津の支配者はたびたび変わり、城もさまざまな変遷を遂げました。1590年に統治者となった蒲生氏郷(1556-1595)は、天守閣を7階建てに改築し、鶴ヶ城と改名しました。その後、加藤嘉明(1563-1631)が地震の被害を受けて、高い塀と堀に囲まれた5層の天守閣に改築しました。
 
当時としては一番強固であると信じられていた鶴ヶ城ですが、1868年の会津戦争で大きな被害を受けました。天皇軍が城を取り囲み、鉄砲や大砲で城を打ちのめし、会津藩は降伏せざるを得なくなったのです。明治維新(1868年)で武士の時代が終焉を迎え、鶴ヶ城は新政府から過去の遺物とみなされるようになりました。1874年、日本の城の多くがそうであったように、鶴ヶ城も大部分が取り壊され、当時の石垣だけが残されました。
 
取り戻されたかつての栄光
1965年、会津若松市民の強い希望により、鶴ヶ城は伝統的な工法で丁寧に復元され、かつての威厳を取り戻しました。屋根には灰色の瓦が使用されていましたが、2011年の修復で赤色に変更され、19世紀半ばの城の色彩が再現されました。現在、鶴ヶ城は日本で唯一、赤い屋根を持つ城です。
 
 
優れた建築の伝統
戊辰戦争(1868-1869)の際に破壊を免れた石造りの城の一部は、写真撮影に適した場所です。また、城壁や堀を作るために用いられた様々な建築技法を見ることができます。石垣は東北地方で最も美しいとされています。
 
野面積み
大工はさまざまな大きさや形の石を自然な状態で積み上げて壁を作り、その隙間を小石で埋めました。このスタイルの壁は、水が隙間を通り抜けるため、排水は良好でしたが、敵が壁をよじ登って城に侵入するのは比較的簡単でした。
 
打ち込みはぎ(打たれて挿入された石積み)
このタイプの壁の一部の石は成形され、隙間が少なくなりました。造り手は岩をたたいて表面を滑らかにし、岩を合わせやすくします。
 
切り込みはぎ(カットして挿入された石積み)
技術が進歩するにつれて、石工は 17 世紀初頭までに石を均一なサイズに成形し、隙間のない頑丈で高い壁を作ることができるようになりました。壁に水がしみこむと建物に損傷を与える可能性があるため、水が流れるように排水口も作りました。
 
遊女石
この高さ 3 メートルの岩は太鼓門のそばにあります。もともとは城を悪霊から守るために置かれたと考えられていますが、後に別の目的で使われました。1639年の地震の後、1,000人以上の労働者が城壁の一部を修復するのを手伝いました。彼らは数キロメートル離れたところから大量の巨大な石を運ばなければなりませんでした。彼らの監督者は、美しく着飾った花魁を遊女石の上に立たせ、労働者のために踊らせました。その美しい光景に刺激を受けて、彼らの懸命な作業ははるかにスムーズに進みました。
 
景観のある歴史
城の1階から4階までが博物館になっており、会津藩主や重要人物に関する資料が展示されています。また、武具や甲冑など武家時代の品々も展示されています。最上階に上がると、城の全景を見渡すことができます。